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Wantedly Journal | 仕事でココロオドルってなんだろう?

Special

田園調布でレバーパテを作り続けて45年。建築家から転身し、洋風惣菜店を開業するまで。

パテ屋と<食>研究工房を主宰する林のり子氏が、食と自然を探求しつづけるルーツに迫る(前編)

2018/06/25

東京・田園調布の閑静な住宅街の一角で、45年もの間、レバーパテやテリーヌなどの惣菜を製造・販売してきた「パテ屋」。店主の自宅の1階部分に増築したこの厨房兼ショップは、庭の木々や草花を引き立てるような控えめな外観ながら、ガラガラと引き戸をスライドさせると、緋色の壁とそれをやわらかく照らす灯り、テキパキと働くスタッフ、ショーケースにずらりと並んだ惣菜が目に飛び込んできて、そこにあるあらゆるものが調和している空間は、足を運ぶたびに惚れ惚れする。

パテ屋外観。右下にあるスタッフ手作りの看板が目印。取材時は2月下旬だったため、木の葉が落ちてしまっているが、初夏には葉が青々と茂る。

厨房内部から入り口を見た様子

この店の店主こと林のり子さんは、1938年生まれの80歳。34歳でパテ屋を始めた後、「日本人の自分が日本でパテを作ることは、フランス人がフランスでたくあんを漬けることと同じくらい不自然なのでは?」という疑問から、世界の気候や自然環境を調べ、地図に起こし、各地に赴き取材もする<食>研究工房を立ち上げた。

こうして食と自然への好奇心につき動かされてきた林さんだが、パテ屋をオープンするまでは、大学で建築を学び、ロッテルダムとパリ、日本の建築事務所で働いていた。建築の世界からあっさりと手を引いたのはなぜだったのか。そこには、「あぁ、私のアンテナは料理に向いているんだ」という確信があったという。

「建築事務所の同僚が『あの雑誌に載っていたあの建物の漆が……』と話していても、私にはピンと来ないんですね。いい空間や建築に出会うと『いいな』と思い、その逆は『なに? この空間は』と思う。でもそこまで。『私だったらこうする』というアイデアがない。それが料理になると小さい時から母の味付けに対してさえ、内心『私だったら……』といつも自分の具体的なイメージを持っていましたし、料理に関する記事は小さいものでも記憶に残っていました。つまり、建築についてアンテナが立っていなかったわけ。それで建築を辞めました」

建築学科に進むしか道がなかった

「これからは女性も仕事を持つべきだ」

製糖技術を学ぶためにアメリカに留学し、海外との接点があった林さんの祖父は、約100年も前にそんな考えをもっていた。女性も手に職を。建築を学び、建築家として働いたのは、祖父とその娘である母からの影響を受けてのことだった。

「祖父がそんなふうだったので、母自身も大学を出たら外国に行くつもりで、東京女子大学の英文科に通っていたのです。ところがその祖父が急に亡くなってしまった。その時に、優等生気質な母は、祖母を心配させてはいけないと大学を中退して、お見合い結婚をしたんです。それが母の一生の悔いだったんですね」

「ビジネスウーマンに向いていた」しっかり者の母親、そんな母親によく似た兄が父の書棚の漱石全集を貪るように読んでいるのを横目に、林さんは気付くと窓の外をぼんやりと眺め、いつもはワラ草履で、雨の日には裸足で野山を駆け回る子どもだった。

「ぼんやりしているのが好きもなにもそうしていたんですよ。きっと何か考えていたのかな(笑)。そんな私を見かねて、母は『本を読んだらどう?』『あれをしてみたらどう?』とか、『私は学校で優秀だった』なんて言い出すわけです。『はい?なんの話?』ってなりましたよね。ある日、母が映画を観に行くと言い出して、一緒に行くことになったときに、私がたしか『疲れたからやっぱり行かない』と言ったんですね。そしたら母は、『小学生なのに疲れたとはなんだ!』って(笑)。子どもの頃からどこかで面倒臭いという感覚があったんだと思います。前にパテ屋で働いていた人からは、『林さんの発想のもとは面倒臭いですよね』と言われたこともありましたから。母としたら扱いにくい子どもだったでしょうね」

高校卒業後の進路は消去法で決めた。

「何かを覚えるのが苦手だから地理や歴史はだめ。理屈で理解しておけばいい数学と、学校が力を入れていて受験に困らない程度の英語はできたので、その2科目で受けられる学科に絞ると、建築学科しかなかったんですね。母が、建築家と結婚した友達にその話をしたところ、『女性がインテリアをやるにしても、まず建築をやってからの方がいい』というので、それもあってなんとなく建築に進むことになったんです。自分から望んだということは全然なくて、それしか受けるところがなかったんですね(笑)」

新聞記事がきっかけで、ロッテルダムとパリへ

高校卒業後、林さんは日本大学建築学科へ進学する。在学中は、次から次へと出される課題に終われ、徹夜続きの日々を送った。学外での活動で印象深かったのは、モスクワで開催された第1回世界建築学生会議のための資料を、いろいろな大学の建築学科の学生が集まって作ったこと。日本チームの代表として、当時大学院生だった黒川紀章氏がモスクワの会議に出席した。

卒業後は海外に憧れを抱きつつも、当時は、日本円を国外に持ち出すことは禁じられていた時代。大学を出たばかりの若者が海外で暮らすには、当時、米国政府資金によって運営されていたフルブライトの試験に合格し、給費留学生になるか、現地の勤め先を見つける(外貨を稼ぐ)必要があった。

「海外に興味はあったものの、フルブライトは東大など優秀な人たちしか合格できず、私にはとてもとても……とぼんやり思っていたときに、新聞に『オランダ留学生募集』という記事を見つけたんです。その記事には、英独仏蘭語のどれかができればいいとあって、『これは穴かもしれない!』と思いました。英語だったら何とかなる気がしたんです」

すぐに大使館に連絡すると、意外にも試験はなく、それまでのキャリアを聞かれただけだった。建築を勉強していたことを伝えると、運よく日本人の建築家を欲しがっている事務所があったため、林さんはロッテルダムに飛ぶことになる。

「建築を学んでよかったなと思うのは、外国に行けたということですね。何も技術がないのに向こうにいきたいといったところでそれは難しいけれど、図面を引いて食べていけるんですから」

ヨーロッパ最大の港ロッテルダムは、戦争で壊滅的な被害を受けたため、港とその都市の復興途上にあり、林さんも建物の設計に関わることに。1年後、そのユニークな作品に憧れて、ある建築家に「あなたのもとで働かせてほしい」と頼んだところ、「自分の好きな仕事しかしないから、人を雇う余裕がない」と断られてしまったが、せっかくヨーロッパに来たのだからパリに行ってみてはどうかとすすめられ、新たに事務所を紹介された。パリでの仕事は、フランス南西部の都市・トゥールーズの計画のためのアイデアを出すことだった。パリで1年を過ごした後、林さんは帰国することを決める。

アンテナが立つということは実感を持てるということ

「パリの事務所でいろんな国の同僚から『自分がいた事務所に来ないか?』と誘われて、これはもう何年でもヨーロッパにいられるんじゃないかという感じだったんですけど、たまたま事務所に来られた日本人の建築家に仕事があるか伺ったところ、いいですよって言われ、あてがないとなかなか帰れないので、じゃあこのタイミングで日本に帰ろうと思いました。日本は建築の情報が豊富だし、活気があったんですよね。それが東京オリンピックの前年。オリンピックが1964年で、私は63年の暮れに帰国しました。

スタッフと賄いを作る林のり子さん(左)。「こうすると食感がよくなるから」とマッシュルームは包丁で切らずに、ヘラでつぶす。

その後、建築の仕事を続けながら結婚し、ふたりの子どもを出産した。

ここで話は冒頭に戻る。林さんが自分のアンテナが料理に向いていることをはっきりと自覚したのが30歳を過ぎてからのことだった。

「やっぱりアンテナって一番大事ですよね。自分が『ハッ!』と思うこと、それを実際にやろうと思うことって、楽しいですからね」

林さんはこう続ける。

「アンテナが立つということは、違う言い方をすると実感が持てるということ。建築よりお料理の方が実感を持てたんです。お料理になると途端に新聞の片隅でも、雑誌でも、見たらなんでも頭に入ってきて、『ちょっと作ってみよう』とか、『これ、おいしい。だけど、これはどうやって作ったのかな?私だったら……』とかね」

林さんのいう「実感」とは、思考停止の逆を指す言葉なのだと思う。細部まで目が届くこと、湧き出た感情のその先に意識がいくこと、とめどなくイメージが湧いてくるほど自分にとって特別な何か、とも言えるのかもしれない。

林さんの料理に対するアンテナは、料理好きな母や祖母のやり方を見聞きしてきたこと、疎開先での豊かな自然との触れ合いによって磨かれてきた。そして、林さんの並々ならぬ好奇心も不可欠だったに違いない。

右は1987年に出版された林さんの著書『かつおは皮がおいしい』(晶文社)。左は2010年に出版された『パテ屋の店先から―かつおは皮がおいしい(新装増補版)』(アノニマ・スタジオ)には新たに4本の原稿が収録されている。

「両親はモボ・モガ(モダンガール・モダンボーイの略称。大正末から昭和初期の流行の先端をいった洋装の男女のこと)、祖父母は明治ハイカラ(西洋風)世代で海外の文化が身近にある環境だったんですね。東京の麻布に住んでいた頃は、横浜のホテルニューグランドのコックさんに来ていただいて、祖母と母は何人かでお料理を学んだようです」

林さんは東京で生まれた後、父親の転勤に伴い、小学1年から小学5年の夏までを岡山と福岡で過ごしている。電気だけは通っていたが、水は井戸から汲み、火は七輪で起こす。食べられる野草を見つければ摘み、火を焚きつけるのに役立つ松ぼっくりを拾って帰る。そんな田舎での暮らしを体験している。東京にいた頃と変わらず西洋の文化は身近にあり、牛タンが手に入れば、食卓にタンシチューが並んだ。

「そういうのをずうっと横で見てきたし、母も説明してくれました。だから、素材を見たら、『あ、こういうふうにしようかな』って浮かぶんです。ヨーロッパに行った時にも、『なぁんだ、うちで作っていた料理の方が手がかかってる。本場はこうなんだ』って思ったりね(笑)。でもホッとした部分もありました。日常の食生活がシンプルで、オランダの友人には『日本では3食火を使うのか』と驚かれたくらいです。ラテン系の国では食事時間が長いといわれますが、オーブン料理など料理にはあまり手がかかりませんからね」

林さんが料理好きなことは、母ももちろん知っていたが、娘が料理を仕事にすることは話題にのぼらなかった。

「たとえば、お料理の先生というのは、母の価値基準のなかでは仕事に入っていなかったみたいです。先生になれたとしても独立して生活していけないと思ったのか、私が先生になるのがよくないと思ったのか、今となってはわかりませんけど、きっと自分が主婦としてお料理をがんばっていたのと、お料理の先生をすることが近いものだと思ったのかもしれませんね」

そして1973年。林さんはパテ屋をオープンする。

後編▶世界の自然と食文化研究がライフワークに。「やりたいからやる」ではなく、客観性と必然性がある仕事がしたい。

Interviewee Profiles

林のり子
パテ屋 /<食>研究工房 主宰
1938年東京生まれ。小学1年から岡山と福岡で過ごし、小学5年の2学期に帰京。1961年、日本大学建築学科を卒業後、ロッテルダムとパリの建築事務所に勤務。帰国後も建築事務所で働いたのち、子どもの離乳食として作っていたレバーパテが評判を呼び、1973年にパテ屋をオープン。世界の気候や自然環境を調べる<食>研究工房の活動も並行する。著書に『かつおは皮がおいしい』(晶文社)、『パテ屋の店先から―かつおは皮がおいしい(新装増補版)』(アノニマ・スタジオ)がある。
  • Written by

    梶山ひろみ

  • Photo by

    岩本良介

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